2012年1月8日日曜日

刻印する大時計


岩手県大槌町は、今回の大津波被災地の中でも最も多くの犠牲者を出したところである。(死者802人、行方不明者505人―12月19日岩手県総合防災室。)人口比にすれば一割近い人が失われた。
気になっていたので、遠野・釜石行きを利用して足を延ばすことにした。
縁あって、大槌の支援活動をしている「いわて結いっこ花巻」の増子さんに案内してもらうことが出来た。

3月11日、花巻も大いに揺れて3日間停電した。電気が通ってテレビを見て、ようやく愕然とする事態を知り、増子さんは被災地大槌に飛んだ。
そこで、泥と瓦礫の間で肉親を捜し求める大勢の人を見た。この寒空に、着の身着のまま、汚れ放題で、亡霊のように彷徨う人々。今はこの人達が危ない!
増子さん達は直ちに、バス会社と花巻南温泉峡のホテルに掛け合って、被災者の温泉輸送(温泉入浴大作戦)を始めた。大槌、釜石、陸前高田などの凍えかかっていた被災者は、温かい湯につかり、とりあえず生き返った心地がしたことであろう。
復興支援組織「結いっこ・いわて」(北上、花巻、盛岡、大槌、横浜、などの拠点がある)の活動はこうして始まったのだそうだ。

始めて見る大槌港は、すばらしい漁港だったことを想像させる。
穏やかな入り海をなしている大槌湾に面し、長く真直ぐな岸壁が続く。これに平行な街路がわずかな平場に出来た街を貫いている。湾を見やれば、目の前にひょこりひょうたん島(蓬莱島)が庭の点景のように浮かんでいる。
ほとんどがこの細長い街区でまちの活動が営まれていたのだろうか。後ろの丘陵部は急峻なためか、あまり人家がない。つまり、高台への逃げ道も少ないということでもある。
数ヶ月前は瓦礫が堆積していたであろう街区は、今は掃き清められ、白々と静まり返っている。この静寂が、むしろここで起こった惨劇への想いを掻き立てる。
港の中央部に鉄筋コンクリート造りの町役場が残っている。窓破れ、壁ひしゃげ、満身創痍の廃墟である。正面壁面上部に3時18分を指した大時計が掲げられている。錆びてなお壁にしがみつき、その時を刻印する姿は、訪れる者の眼を射る。

港の入り口には静寂を破るものがポツポツ出来てきた。
特に目を引くのは、最近オープンした仮設の「復興食堂」だ。地元の商店会などがつくる社団法人「おらが大槌夢広場」が運営する。
大きなテントを組み合わせた建物だが、半透明のビニールシートで覆っているので中は明るく活気に満ちている。
メニューは3種類。「大槌うどん」格安の400円。人気の丼は、「特選海鮮丼」、イクラとサケの「おらが丼」、いずれも500円。発泡スチロールの丼とはいえ、新鮮魚介たっぷりで、この値段では申し訳ないほどの絶品の味だった。

20111226 a.y.

大槌港


大時計

 復興食堂外部                                復興食堂内部

ここに鉄路ありき


11月の長洞行きは、わが連れ合い同伴で動くことにした。
後で長洞から北上し、遠野と釜石のコミュニティケア型仮設住宅を訪ね、介護職員である連れ合いと共にインタビューしたいこと。今後、海の食材のことも考えたいので、今から元気村を見知っておいて欲しいこと。などが公式の行動理由だが、もうひとつ理由がある。

わが連れ合いは、もともとイーハトーヴォ(宮沢賢治が呼ぶ岩手県)のファンであり、三陸地方および三陸鉄道のファンである。
ここで言う三陸鉄道は、㈱三陸鉄道が運営する北リアス線、南リアス線、JR山田線の一部、JR大船渡線と気仙沼線をつないで、三陸沿岸を貫く「三陸の鉄道」を意味している。
この三陸鉄道による縦走の旅を2度ほど経験し、心に刻み付けている光景の、その惨状をテレビで見続けることに耐えられなくなった。現実に触れ、つながりを持ちたい。という彼女の想いが本音の理由である。

同伴といっても途中で合流する行程なので、気仙沼まで迎えに行き、レンタカーで長洞に向かう。
このルートは、気仙沼で港町の大規模な破壊と焼け跡、陸前高田に入れば高田松原一本松の孤影を見ることになるので初めてならば誰でも打ちのめされる。
そして、瓦礫の高田市街地跡を過ぎ、広田半島に向かうため海側の脇ノ沢方向への進路を取る。
すると、彼女がハッとして再び胸を詰まらせる光景に遭遇する。いや、最初は光景ではなく音声だ。

「しばらくすると踏切があります。気をつけて渡って下さい。」というカーナビのアナウンス。
踏切などある訳がない。だが、近くをよく見回すと、切断された線路が見える。
それは、赤錆びて延々と藪の中に続いている。
錆びた鉄路は物悲しい。失われた人も含めて、人々の移動と交流の手立てであったもの。何より、自分が三陸の風景に出会うよすがであったもの。これらの記憶を湛えたまま打ち捨てられている。

翌日、長洞から北上する際、もう一度カーナビによる幻の踏み切りを渡る。そこは、かつての大船渡線小友駅の近傍。
小友駅の周りはどんな景色だったか。ここに一つの手がかりがある。
コスモスの咲き渡る中を列車が通る小友駅の写真。

7月の開村式を終えて、仮設研メンバーが帰り支度をしている朝。開村式に出席していたおじいちゃん(お孫さんも知っているのでこう呼ぶ)が現れ、全員にお土産を渡すと自転車を返してさっと行ってししまった。
長洞の人だが、事情があって別の仮設住宅に家族と住んでいる。長洞の復興を手伝う我われに好感を寄せたのかも知れない。
そのお土産が、在りし日の小友駅を写す手づくりの写真はがきである。

2011・12・25 a.y.

在りし日の小友駅

2011年12月9日金曜日

浜は動き出す


10月1日早朝、長洞の前浜に出てみると、集落の人たちが大勢揃って作業をしていた。
今、広田半島の漁業は停止状態にある。広田港などの拠点港では、水揚げも加工も出来ない。多くの人たちは船も漁具も失っている。
だから、船が無事だったとしても抜け駆けの漁は自粛しようという事になっている。だいいち、港が壊れているのでまともな漁船を停泊させられないのだ。
と言っても、小船なら何とか動かせるので、修理したり中古を買ったり、段々浜に小船が増えてきた。漁業とは言えない、自家用の魚を獲ることは各々ぼちぼちやっているらしい。

だが、今日の作業は個人の魚獲りではない。共同作業である。
ワカメ養殖用の太いロープを、長さを揃え一定間隔で浮き球を装着する。
その準備が済んだら、皆で沖へ持っていって、別途種付けをしておいた細いロープを差し込んで仕掛けを完成する。と言う作業の一環をやっていた訳だ。
ついでに言うと、仕掛けとは太いロープの一方を水面に浮かせ、一方は海底に垂らして錘で固定する。水面に浮いたロープから種つきロープが藤棚のように何本も下がる。これを何列も並べる。
というものであると、話を聞いたのだが、正しく図解できるぐらいに全工程をこの目で見てみたい。

翌日、広田半島一周の漁港調査をした際、根岬(ねさき)漁港でワカメの種付けロープの手入れ(不良なものを間引いたり、整えたりする作業)の現場に遭遇した。
養殖漁業とは、種を植え付け、ロープやいかだ(カキやホタテの)を畑のように整然と仕掛け、季節が来れば収穫する。なにやら農業にも似ている。
そう言えば、3月11日は長洞の人たちが春ワカメの収穫に出る前日だったそうだ。
2011・11・23 a.y

ワカメのロープを揃える-長洞で
種付けロープの手入れ-根岬漁港で

2011年10月14日金曜日

黒崎神社の赤い虎


広田半島の南、リアス式海岸の岩や断崖を見下ろす位置に黒崎仙峡温泉という保養施設がある。
私たちが長洞に滞在すれば必ず行く、お楽しみスポットだ。
温泉の近くに、平安末期創建の黒崎神社がある。神社に接して公園があり、双方が一体となって清々しい緑のオープンスペースを構成している。
10月1日、その神社前に長さ20メートルを越える長大なハシゴが建てられていた。黒崎神社祭礼の奉納芸能最大の呼び物、「梯子虎舞」の舞台装置である。

虎舞とは、私たちの目には獅子舞と変わらないように見えるが、要するに魔物の形象。この虎をハシゴの上におびき上げ、ゆったりとしたテンポで舞いながら登る。おおどかなリズムの中に緊迫感の伴うユニークな芸能である。高度な技術を要するので、根岬集落にのみ伝承されている。
舞のストーリーはこうだ。
10月、即ち神無月、出雲に向かおうとするこの土地の神様の行く手を魔物が邪魔をする。そこで、ある賢い者(才坊)が一計を案じ、魔物を高い岩場の上に誘い出し、その隙に神様一行が通り抜ける、という伝説。
本祭りでは、各村の神輿が神様なので、参加した神輿分、虎舞が行われるはず。

衆目を集める魔物の化身、赤い虎は、2人1組になって演じられる。
才坊におびき寄せられる魔物、赤虎は、梯子の途中で右に左に威嚇するような身振りをしながら上へ、上へと登っていく。頂上に達すると舞手は衣装の中で体を組みなおし、一人は虎の面の構えを保ちつついきなりダイビングをする。(衣装の仲では、後ろ向きにのけぞって反動で戻る動きをしているのだろう。驚異的な腹筋背筋力)
虎の飛翔を思わせる大きなスウィングを繰り返した後、突き出た梯子のてっぺんに足を掛け、大見得を切る。
このクライマックスに観客は度肝を抜かれ、ハラハラしながら大喝采をする。という趣向になっている。

実は、私たちが見たのは練習風景。本祭りの際は、虎舞を含めた広田半島の主要集落が総力を挙げた郷土芸能の競演になるそうだ。今年は、大震災による特殊な事情で、根岬に伝わる虎舞の部分だけ敢行することになった。
翌日は、笛、大太鼓、女性軍による小太鼓連が揃った総連集があるというので、当然、また見に来ることにした。
4年後の本祭り、何としても見たいものだ。想像しただけで陶然としてくる。
2011・10・12 a.y.

右に吼える

左に吼える

登ってきた

ジャンプ


2011年10月9日日曜日

方言力


仮設住宅の暮らしも一月ぐらい経った8月のある日、長洞元気村の村上誠二さんが別の仮設住宅に住む知り合いの老人に会ってこんな会話をしたそうだ。

誠二 「カセツの暮らしはなじょなもんだ?」
老人 「オラァ、豚小屋のブダみでだ」
誠二 「んだば、たんと食べて、そのうぢ高く(たがぐ)売ればいい」

こざっぱりした部屋を与えられ、物資の配給もあるが、やることがない。ただ、喰って寝るだけの暮らしだと嘆いているのだが、6ヶ月もたつのに復興への道筋が示されず、宙吊りにされた被災者の心理を言い当てている。
仮設住宅において、復興に立ち向かう暮らしが営めているか、という我が研究会の重大な関心に触れる事柄でもある。
だが今回は、“音楽の素養があるなら音符を付けたい”と思っうほど、このやり取りはもうひとつの興趣をそそるので、その話題にしたい。
それは、方言の魅力である。

ここは岩手県気仙地方なので、使われている言葉は気仙語などと言われれている。(井上ひさしさんの造語かもしれないが)
東北弁を、濁音の多い訛りのある言葉と単純に思っている人がいるが、東北の方言はひとつではない。それどころか極めて多種多様だ。
とは言え、地域的な連なりに沿って一種のグラデーションをつくりながら変化している。
東京から順に見てゆくと、茨城、福島と連続し、福島から山形と宮城に変化の流れが二手に分かれる。宮城で変化した傾向に岩手で大きな特徴が現れる。と、私が感じている特徴とは“抑揚”である。
ゆったり、もしくはのったりしたリズムを取りつつ音程が上下する独特の抑揚。
そして、会話のユーモラスな掛け合いと一体となってこの特徴が構成されている。ユーモアこそ、生きる充実の証だと言わんばかりに。

村上誠二さんは、実はこの方言(気仙語)を織り込みながら話す、トークの名手なのである。
3月11日の修羅の光景、集落の団結、勝ち取った元気村とその運営。
あるシンポジウムで聞いた村上さんのこの話は、ひとつの村のエピソードながら、あの歴史的事件の展開を凝縮していて一種の迫力がある。
組み立ての分かりやすさに加えて、随所に現れる気仙語の会話が話をヴィヴィッドにするので、聴衆はつい惹きこまれてしまう。
方言力は表現力だと思う次第である。
2011・10・08 a.y.

2011年9月26日月曜日

闇の中からの道筋は


南三陸町を出たのは午後6時ごろになってしまった。
漁港訪問の後、中瀬地区の仮設住宅も訪れたので予定よりも大幅に遅れた。急いで長洞の元気村に向かわねばならない。
国道45号を突っ走ったが、“東北”は広い。ようやく陸前高田市域に入った時はとっぷりと暮れていた。
応急工事で復旧した気仙大橋を越えると高田市街に入る。右手には水没した高田松原があるはずだが何も見えない。「提言6」に書いてあるように、ここは漆黒の闇の世界だ。
闇の中の国道を走るのは怖い。信号はない。街路灯もない。街がないから灯りが皆無なのだ。
ガードレールがぼうっと見えるのは少し役に立つ。必死に方向感覚を研ぎ澄まし、道路の存在を確認しつつ前進するしかない。時々壁のように感じるのは何かの残骸。
遠くにビルがあるのかと思わせるのは、コンクリート類、鉄や金属類、木質類に分けられた瓦礫の山々だ。
地盤が下がっているので、近くを海水が浸しているのが分かる。もし、満月が水面を照らしてでもいれば、フラフラと誘い込まれそう。
提言したように、この視界の中に仮設の商店街が出現すれば、オアシスのように感じるだろう。
ただし、10軒や15軒のスケールでは、魔性を漂わせる闇の世界に紛れてしまうのではないか。
難しい問題であることを実感する。

三陸沿岸の市街地にはもともと大きな商業ストックがあった訳ではない。巨大な爪痕を押し戻し、乗り越える先頭に立つにはやや非力に見える。
一方、被災農地の復旧には、震災前からの構造的な農業存立の課題が被い被さっている。
とすれば、三陸の復興は、多くのものを奪い去った海から取り戻すことから始めるのがふさわしいのではないか。なにしろ、夜が明ければあの日とはうって変わって、きらきらと明るい海原が広がるのだから。
20110915 a.y


陸前高田市(旧脇ノ沢漁港周辺)から広田湾を望む

長洞元気村・開村式 印象記

長洞元気村は、ついに開村式を迎える。

7月17日。前日までは一日中、断続的に霧が立ち込めていたが、一変して朝から晴れがましい程の青空となった。

仮設住宅の全住民により、設営、料理、元気市場、等等、役割分担のもとに入念かつ迅速に進められた各準備が整い、メイン道路周りにつくられた臨時広場は祝賀の時を待つばかりだ。

12時。大船渡から駆けつけたアマチュア芸能団、「寺町一座」の賑やかで楽しいチンドンパフォーマンスで式典の幕が開く。
次いで、手づくりの流しソーメン、豚汁、炊き込みご飯、フルーツポンチ、などおもてなしコーナーがオープン。

賞味し回って腹も落ち着くころ、流された後に、奇跡的に発見された長洞太鼓が並べられ、伝承に取り組む若者の復活演奏が催される。勇壮な響きにどこか優雅な振りが伴う。
快晴の海辺は焼け付くような日差しだ。加えて元気村の人々の想いも燃えているのか、強烈な暑さにくらくらと目も眩む。

こんなに明るい、笑顔に満ちた仮設住宅があるだろうか。
果てしのない瓦礫の荒野、まだ避難所状態から脱却できない多くの人々のことが頭をよぎる。ここは被災地なのか。
もちろん被災地だ。しかも、半島の根元を両側から津波に襲われ、孤立に耐え忍んだ集落だ。それを強い結束力と先々の問題への主体的な取り組みで乗り越えてきた。その節目の今日は、当然祝福に値する。

元気村会長の心のこもった感謝の辞で式典はひとまず閉じられる。
夜は、その場で宴が始まる。
老いも若きも交わり、過去のこと、あの日のこと、これからの肝心な事柄など、此処かしこで語られる。元気村を拠り所ににして復興を手繰り寄せる生活が今からスタートするのだ。
見上げれば満天の星空。

星座がデカイ。夏の大三角を構成する、琴座が鎮座し、白鳥座、鷲座が羽ばたいている。大きな物語の中に居るのだぞ、と。   


(この文は既にホームページ掲載したものですが、元気村の動向を軸に東北の復興を見て行こうという趣旨から、開村式をブログのスタート地点にします) 


5月、仮設用地でワークショップ

7月、仮設住宅完成入居

7月17日、開村式風景